生きる上で意味を持つのは、他人との出会いだけだ。
そして、移動しなければ出会いはない。
移動が、すべてを生み出すのだ。
歌うクジラ

2011年のクリスマスイブ、ハワイの海底で、グレゴリオ聖歌を正確に繰り返し歌うザトウクジラが発見される。
それから約100年後の日本。15歳の少年タナカアキラが不老不死の遺伝子を巡り、見知らぬ声に導かれるように旅を続ける。
クチチュと呼ばれる突然変異の特徴を持つサブロウ、反乱移民の子孫であるアンという名の女と出会いながら、さまざまな世界を体験し
最後にたどりつくのは、青い地球を彼方に眺める宇宙空間。
そこで少年が対峙するものとは-
「半島を出よ」の刊行から約5年ぶり、ipad/iphoneの先行配信でも話題になった村上 龍さんの新作です。
ちょうどダヴィンチの12月号でロングインタビューが載っていたのでそれと合わせて読みました。
思うにこれがガイドブックのように相当役に立ったし、ありがたかった。
このインタビューを読まなかったら著者の意図するものを汲み取る事が出来ず、途中で読むのをやめていたかもしれない。
それくらい読みにくくて、理解しにくくて、難しい内容だと思う。
尚且つエログロバイオレンスで、そのうちのどれかひとつでも苦手な人はきっと辛いと思う。
だってエロ or グロ or バイオレンス じゃなくて エロ and グロ and バイオレンス だもん。
「セブン」とか「ソウ」みたいなバイオレンス映画がわりと平気な人は大丈夫だと思う。
僕は橋を目指している。
だが橋に辿り着けるかはわからない。
という文章から物語は始まります。
ページをめくっていき10ページ、20ページと進んでいくとなんだか不思議な感じがすると思うんです。
これ、カギ括弧が出てこないんです。
ちなみに作中には一度もカギ括弧が出てきません。
これが読みにくい、というより経験した事のない物語、文章を読んでいるような不思議な感覚になるんです。
さらに主人公が想いを寄せるアンという反乱移民とその仲間達は助詞を滅茶苦茶にした日本語を使います。
例えば「これを本当よりおいしいからこんなでおいしいものがぼくが食べたことをない」など。
なんとなく意味は分かるけど助詞がおかしくて読みにくい。
上巻を読んでいるとこの2つにひっかかりページをめくるのがかなり鈍ると思う。
カギ括弧に対して無自覚になるのが嫌なんです。
-ダヴィンチ 12月号 「歌うクジラ」ロングインタビュー -
カギ括弧を使わなかった事に対して村上 龍さんはこのように考えているそうです。
この物語は100年後を描いたものです、と断ることなく、いきなり読者を100年後の世界に誘導する書き方をしています。
助詞を誤用した言葉を喋らせたりするのも、説明的ではないやり方で読者に作品のパラダイムを提示するためです。
カギ括弧を使うと現実感が表に出てしまうんですね。
カギ括弧のない文章は読みづらいけれど、未知の場所にいきなりひきずりこまれる緊張感が持続するので、この作品に向いていると思いました。
-ダヴィンチ 12月号 「歌うクジラ」ロングインタビュー -
助詞を滅茶苦茶にした日本語について
僕の友人に外国人の翻訳家が何人かいます。
彼らは日本語を正確に使いこなせるはずですが、たまに助詞を間違えるんです。
彼らに聞くと、日本語の助詞の活用はとてもむずかしいそうです。
助詞を間違えて日本人に笑われたりばかにされたりする移民の子孫たちが、移民としてのアイデンティティーを確保するために、意識的に助詞を誤用した日本語を話すことはありうるのではないか、と考えました。
100年後の世界なので科学技術の進展については予測不可能で、その部分は放棄せざるを得ませんでしたが、言葉の問題には注意を払いました。
言葉は20~30年の単位で変わっていくからです。
-ダヴィンチ 12月号 「歌うクジラ」ロングインタビュー -
一見するととても読みにくく、理解しにくい文体が続き、ページをめくるのが苦痛に感じるかもしれないけどそんな風な文章を書く意味がちゃんとあって、だとしたらそれを読む意味もちゃんとあるんじゃないだろうか。
助詞が常におかしいせいか多少の文章の矛盾が気にならなくなり
矛盾した表現の組み合わせが新しい世界や新しい表現を生み出しているように思いました。
SW遺伝子→2022年のクリスマスイブにハワイのマウイ島近くでグレゴリオ聖歌の第二旋法を正確に歌うザトウクジラから発見された不老不死の遺伝子
クチチュ→体内から毒性のある成分を分泌する突然変異の特徴を持つ人の総称
メモリアック→個人の記憶を記録・保存したり、その記憶を他人と共有する装置
ガスケット→三次元空間で競技する人気スポーツ
といった架空の出来事や人種、スポーツなどが沢山出てきて、その描写力の正確さが神懸っている。
未来の風景や建物や乗り物もまるで目に見えているものを書いてるみたいに描写されていて、それってとてもすごい事だと思う。
何一つ曖昧にしていない。
SW遺伝子に関する秘密の情報が書かれたICチップを体内に埋め込み、アンジョウという男に会い、老人施設にいるヨシマツという男にICチップを渡すため主人公はひたすら移動します。
とても読みにくかったけれど、主人公が思いを寄せる「アン」という女がいてその女が誰かにひどい性的な辱めを受ける場面を見たい一心でページをめくった気がします。(どSなんです。。)
てゆーかそんな風に感じる自分って人としてどうよ?
この感想読んだ人引いちゃうって絶対。
って思うんだけどこれは意図的にそう感じさせるように書いてあると思ったんです。
そのため上巻を読んでいる間の精神状態はひどかった。
下巻に入ると助詞を崩した言葉が出てこなくなり、いっきに読みやすくなる。
猥褻な想像を掻き立てさせような文章から開放され、ひとつの大きな物語として捉えられるようになる。
とても繊細で綺麗で感傷的な言葉も沢山出てくる。
だから上巻で辛い思いをするかもしれないけど、どうしても頑張って下巻まで進んで欲しい。
ノーベル医学賞を受賞してSW遺伝子を注入され、不老不死のサツキという女が主人公を導くんだけどこんな事を言います。
神経も筋肉も再生され続けていて身体機能も記憶も性欲も衰えることがない。
これまでの数え切れない歳月で親しい多くの人を失った。
その人たちと過ごした時間、決して逆流することのない水路のように、時間軸に沿って目の前を横切っていく思い出、人々と共有した音楽や映像、家族、セックス、愛玩動物のようにわたしに甘えわたしが甘えた性的なパートナーたち、
彼らや彼女たちを失うと、彼らや彼女たちを、心の中の、精神の隙間の、特定の場所に刻み込まなければならないでしょう?
そのために悲しみという感情が必要なの。
悲しみが何年かごとに新しく生まれ、圧縮されて折り重なり、うずたかく積み上げられていて、それはまるで希少金属の鉱山のようにわたしの内部にそびえているの。
わたしの精神の鉱山には、人生の宝石の原石である悲しみと抑うつ感だけが埋まっているの。だからどこを掘っても、わたしが見つけることができるのは、実を切り裂くような、光り輝く悲しみだけなの。
この文章を読んで不老不死になる事の悲しさや虚しさに胸がとても苦しくなった。
なんて悲しい世界なんだろう。
とても暴力的でグロテスクで、とても猥褻でいやらしい表現が多いんだけど
そんな中でも繊細で切ない感情を表す文章がちゃんとあって、
だから好きか嫌いかはあっても、凄いか凄くないかはないと思うんです。
凄いしかないと思う。
インタビューで村上 龍さんは
100年後の日本の政治、経済、社会、文化的な状況をシミュレーションするのは、当初から目的ではありませんでした。
それ以上の、もっと普遍的なことを書くことに意味があると思いました。
-ダヴィンチ 12月号 「歌うクジラ」ロングインタビュー -
と語っています。
「普遍的なこと。」かー。
この言葉の解釈は読んだ人によって違ってくるんじゃないかと思う。
僕はそれが何を意味するのか分からないけど、ただラストシーンを読み終わった後の余韻の大きさにしばらく呆然としました。
壮大なスケールで、圧倒的な想像力と描写力で、目を背けたくなるほど暴力的で猥褻で、普遍的なSF小説です。