1973年のピンボール の書評・感想

1973年9月、この小説はそこから始まる。
それが入口だ。
出口があればいいと思う。
もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。

1973年のピンボール

1973nopinball.jpg 僕たちの終章はピンボールで始まった。雨の匂い、古いスタン・ゲッツ、そしてピンボール......。青春の彷徨は、いま、終わりの時を迎える。さようなら、3(スリー)フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との<僕>の日々。女の温もりに沈む<鼠>の渇き。やがて来る1つの季節の終り。デビュー作『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く3部作のうち、大いなる予感に満ちた第 2弾。

【風の歌を聴け】の続編で青春三部作(鼠と僕の物語)の第2篇。

1篇目の洒落た映画のようなシニカルな印象やお洒落な会話のテンポからがらりと雰囲気が変わりいきなり行き詰まった。

というか1篇目をシニカルでテンポの良い物語と読むのもそもそも間違いだったのかもしれない。

三部作、その続編の【ダンス・ダンス・ダンス】まで読んでまったく意味が分からず、論評やガイドブックを読んでようやく分かったいくつかの事を引用しながら感想を書いていこうと思います。

そもそも第1篇の「風の歌を聴け」の中で受ける読みやすく軽快なテンポの印象にその裏側にある主人公「僕」の抱える悲しみや苦悩、人を拒絶する言動を読み飛ばしてしまっていた。

「1973年のピンボール」の前に「風の歌を聴け」を振り返り、例えば幼年時代の記憶を語っている

小さい頃、僕はひどく無口な少年だった。
両親は心配して、僕を知り合いの精神科医の家に連れていった。

というのは自閉症で他人とコミュニケーションを取る事が出来なかった事を言っているし、付き合っていた彼女を今年の春先に首つり自殺で亡くしている。

これについて

他者の心をうまく掴むことができないという苦悩は、自分の心をうまく他者に伝えることができないという苦悩と表裏である。
そして、自分の心をうまく他者に伝えることができないという苦悩は、自分の心を自分でうまく掴むことができないという苦悩に等しい。
~略~
伝えようとして伝えることができないこと、他者の心に達しようとして達することができないこと、村上春樹の作品のなかでそれは、主題というよりはほとんど前提になってしまっている。人間に課されたこの条件のもとで、いったいどのようにふるまうべきなのか。

村上春樹はこの前提を、軽快さと暗鬱さの奇妙なアマルガムとして語りつづけてゆく。
~群像日本の作家 村上春樹 「村上春樹とこの時代の倫理」~

また

「知り合った翌年に自殺した女の子」と知り合ったのが実は去年であることが明らかにされる。つまり、その女の子は、今年の春に自殺したのである。
語られている今が夏であるから、それは半年に満たない過去である。
普通ならば、恋人が自殺してから半年にもならないというべきところだろう。
だが「僕」は、その女の子は「知り合った翌年に自殺した」と語るのである。
つまりここでは、半年前の体験がまるで幼年時代の体験のように語られているのだ。

彼は、過去も現在もおしなべて遠い昔の出来事のように書きしるすのである。
暗鬱な体験を軽快に描くことがそれによって可能になったのだ。
~群像日本の作家 村上春樹 「村上春樹とこの時代の倫理」~

と解説されてある。

これは心の中にそうした孤独感や喪失感を抱えた状態で展開されていく物語で、
同じように直接的な表現はないがその裏側で読者の想像力を駆り立てるようなシーンがいくつもある。

ジェイズ・バーで知り合った小指のない女の子が一週間ほど旅行に行くと言い、けれど本当は堕胎のために入院していた事やさらにその一週間が鼠の元気がなかった一週間と重なる事から女の子の身ごもったのは鼠の子だったんじゃないか?

だとしたら鼠が「僕」に会わせようとしたのはこの小指のない女の子という事になる。

はっきりと書かれていないので勝手な想像なんだけど考えれば考えるほどそう感じさせるように書かれている気がしてくる。

このような物語の捉え方や作者の意図が曖昧で受け止め方が千差万別で答えのない想像の海をいつまでも漂うはめになるのが村上 春樹の面白さなんじゃないかと思ったんです。

そうした考え方で「僕」と「鼠」の関係を考えていくとただの友達関係を表しているんじゃなくて<これは村上作品に欠くことのできない2つの世界を表している>という解釈がかなり的確だと思う。(村上春樹 全小説ガイドブック 参考)

「ノルウェイの森」で心を病んで静的で死の象徴の「直子」と
活発でユーモラスで生の象徴「緑」
「アフターダーク」で色んな人間と関わっていく「マリ」と昏々と眠り続ける「エリ」
「海辺のカフカ」で交互に展開されていく「田村カフカ」と「ナカタさん」とか。

この2つの世界は後の色んな作品に共通している構造でそれが初めて描かれているのがこの三部作なんだそうです。

そんでこの「ピンボール」。

ピンボールに夢中になりピンボールを探し求めて展開する必要が分からなくて何故にピンボール?って疑問だったんだけどこれも後の作品の共通構造<探し求める>でその対象が今回はこの「ピンボール」なんだろう。

僕はこの作品で、初めて自分の思いをひとつの対象にしぼりこむことができた。
それは幻のピンボール・マシーンである。
主人公の「僕」はその機械を探し求めて旅をする。
こういうプロットというかストラクチュアは僕の心にとてもよく馴染んだ
~「全作品」~

それは続編の「羊をめぐる冒険」でも「羊」を探し求めるストーリーにも共通して言えることだし共通して繋がり方がとてもメタファーで、とても分かりにくい。

町を出ることを決心した鼠の心境

この町を出て何処にいけばいいのかもわからなかった。
何処にも行き場所はないように思えた。

これでもう誰にも説明しなくていいんだ、と鼠は思う。
そして海の底はどんな町よりも暖かく、そして安らぎと静けさに満ちているだろうと思う。

などの言葉から「街」とはこの世、この世界であり、つまりは死を選ぶということである。
~村上春樹全小説ガイドブック「1973年のピンボール」解説~

それに対して最初に引用した

1973年9月、この小説はそこから始まる。
それが入口だ。
出口があればいいと思う。
もしなければ、文章を書く意味なんて何もない。

という「僕」の独白は書くことによって鼠の死を、新たな始まりへ見立てようとしている。
~村上春樹全小説ガイドブック「1973年のピンボール」解説~

表現の仕方がとても独特で、受け止め方が分かりにくく、「1973年のピンボール」を読んでそういった部分部分を続編への伏線として理解して「羊をめぐる冒険」の展開を予想出来たら天才なんじゃないかと思う。

さっぱり意味がわからんでガイドブックや論集を読んでもやもやしたものをやっと形にすることが出来た。

3部作の2作目になるこの作品を3つの中で1番意味わからんって思ってたけどそういった今後の作風に関するキーワードがいくつも隠れていて重要な意味を持つ作品なんだそうな。

ガイドブックを沢山引用してとても長くなったけど同じように青春三部作を読んでイミフだった人の参考になればと思います。


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評価

風の歌を聴け (講談社文庫) 羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫) 羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫) ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫) ダンス・ダンス・ダンス(下) (講談社文庫)

by G-Tools , 2011/01/28



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